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コメントの内容を見ていると、甲野さんの言葉の意図を間違って捉えている方がチラホラといらっしゃる気がしました。もちろん、自分も100%理解できているのか?と問われると、そうではないかもしれません。わたしは武道ではありませんが、身体操作の有識者(踊り)として、何度かプロやアマチュアを対象に教育をした事があります。甲野さんがよく仰られている内腕という造語がありますが、それに近い技術となる、肩甲骨のアイソレーション(独立運動)についての授業をしたときに、かなり近い意識を持ったのではないかと感じる時がありました。私は肩のアイソレーションが独特です。その知識を学びたいという人に対して、ここではざっくりと書きますが、肩甲骨の運動意識を二次元的から三次元的に変える事をレクチャーしました。その時、9割以上の人には「想像できる範疇を超えた意識だった。自分では思いつかない考え方だ」と言われたのです。最初はそこまで違和感は無かったのですが、次第にその言葉に大きな違和感を感じ始めました。それは、見取能力の高い人にレクチャーした時との差です。残りの一割のレクチャー相手は見取能力が高かったのですが、私の言葉から読み取る情報量が圧倒的に違いました。読み取ってもらえる。。。というよりかは、え?この人レクチャー必要あったかな?という感覚。つまり、固定概念さえ捨てて練習を続けていたら、いずれは習得できていた技術だったんだろう。という予感でした。そこで気付いたのです。踊り以外でも情報処理の教育もしているのですが、教育を受けた時の情報(固定概念)に縛られている人の多さへの驚愕です。甲野さんは、アボリジニの読み取り能力を例え話として挙げ、更に棒術に関しては、既存のイメージに囚われない動きを重視していると話をされていました。これは、成長に関する話を例え話でされていたのではないかと思います。コメントでは継承についての話をしている人がいらっしゃいますが、本質はきっとそうではないと思うのです。よっぽどといい教育者に恵まれなければ、技術や知識は自分の力で成長させ、新たな領域を開拓していくしかありません。甲野さんも継承に関する教育は絶対的に必要で、大事だと考えているはずです。その上で、その情報に囚われていた自分自身に対して、後悔の念を抱かれているように感じました。「教わる」ことの落とし穴。それはきっと、教わった事以外の事への想像力と創造力の欠如なのではないかと、私はこの動画を観て感じました。
教わり過ぎちゃうと、自分で考える力が育たないと言う事ですね
数式・公式を単に覚えているのと、自分で見つけ出す数学者が違う感じ?
身体が個々で違うわけだから、同じ指導でも、各々の身体機能で調節するのが答えなわけなんだけど、それが分からず考えようともしないから上達しなかったんだな自分は!頑張ろ!
それは仕方のないことですよ。人類は、社会集団のある一定の規則の中で活動をしてきたのですから。先生の仰ることの方が現代社会においては不可解なものだと思いますよ。
武術を齧った事のある身からすると『教える』事が出来るのは理屈で説明できる事だけで、感覚的な言葉で言い表すのが難しい事は自分で『学びとる』しかないんだと思います。
初めまして、黒田鉄山先生と甲野善紀先生と私は良く稽古しますが、2人の先生と稽古しているうちに、自分でも知らないうちに身体が使えるようになってきて最近は無足や浮身の感覚が足裏に感じられる所まではきました。甲野善紀先生とかなり古い時代から稽古している先輩から見取り稽古は徹底的にさせられました。そのおかげで、武術以外でも見取り稽古が役に立つ時がありました。
現在は身体の使い方(動かし方)が昔と異なっているので、重心の使い方·関節の使い方の手本が無い。甲野氏の動きを見ると非常に勉強になる。
ホントにそうだな!身体に染み込むって分かりやすい、試行錯誤したものが残るんだな言葉が話せるように自然とって大事
甲野先生の動画も、それをめぐっての皆さん方のコメントも大変参考になりました。ありがとうございました。
甲野さんの身体の動きを見て、「1000人の素人が束になっても、1人の職人に敵わない」って言葉思い出しました。そういう人間を目指します。
今エコロジカルアプローチという分野で環境制約と言われるものを甲野先生はおっしゃている感覚的な議論のようで非常に科学的な話です
江戸時代に書かれた書物に、こういうものは自得の他、道なしと書いてあります。甲野先生はご存じなんでしょう。
見稽古と言う言葉の意味はつい最近何となく理解できるように成りました
手裏剣を投げるときの澄んだ音きれい・・・
ブルースリーの「考えるな、感じろ」ってこういうことやったんか。
自分で考えて行動するってことは、なかなか出来ないことだよね。出来る人は優秀な人が多いイメージ。それを極めた人はどのジャンルでも出世してるイメージ。ひかれたレールの上で教わったことを極める人も自分で作り上げる人もどっちも素晴らしいと思う。
イメージだけの口だけ思考なのは分かったw
お師匠様からはよく、剣に聞けとは言われましたな
saber red カッコ良すぎるやろ笑
カッコいい
なるほどなと思い、自らの振る舞いを顧みさせるお話だと思いました。しかし私のような凡人は、客観的で再現性の高い解釈の体系に頼りたい気持ちを捨てきれないな、とも思います。感覚的なことも解剖学的な身体イメージと、その解剖学的構造に基づいた、ある種の身体操作理論を原則として卓越した格闘家や武道武術家の方の動きを見て、解釈するのは今まで気づかなかったことに気づいたりすることが頻発します。解剖学的な構造を元に推論を立てるほうが無意味な後戻りや停滞がないように思います。
骨格や関節の構造それを繋ぐ筋や腱の働きは重要だと思います
先生は元は合気道なのか納得!
おそらく、「見とる」という表現が誤解を招きやすいように感じる。より良く表現できてるかわからないけど、「自分の中に世界(論理)を形作る」という風に言い換えられるはず。基本的に、教わる知識って元々持ってた世界の上に付け加わっていく様な形で理解されていくんだけど、それとは違って、稀に自分の中にある世界自体が変質して、新たな知識体系の中から新しい情報が理解されることがある。前者はテクニック的な知識で、後者は根幹的な知識と言えるかもしれない。応用が利くのは圧倒的に後者で、一つ一つの事象に新しい世界観での反応を返すだけで基本的に対応ができるが、前者だと、適応範囲が限られていて新しいケースへの対応ができないことが多々ある。また面白いのは、必ずしも身体的な技術だけがそうであるわけではなくて、学問的な分野等においても同様のことが起きるということ。難解な論文なんかは大抵世界観が先に降りてきて、それを後追いで言語化してる場合だったりするんだけど、これはまさに武術の技術をうまく教えられないっていう現象と重なっていて、仏典などもその一例に挙げられる。動画中で相当優秀な教育者じゃないと、教えて育てあげることは難しいって言ってるんだけど、この「優秀な教育者」っていうのは、言葉を介して他人が新しい世界を形作ることをリードできる人のことを指しているのだろうね。
甲野先生と同じ電車に乗ってたことがあります
甲野先生とお話したことがあります。甲野先生から教わったことがあります。甲野先生と・・・(笑)どうでもいい話だよ
この地味な顔を良く見分けられるな
@@private5179 不意打ちでパンチしてみたら良かったのにそれで本物かどうか分かるでしょ笑
「昔は技を盗めと言われていたが、今は親切丁寧に教えてやるのが正しい」というような風潮があるが、見取る能力の変化によるものだったのかもしれませんね。武術に限らず、人に教える立場の人は一度は考えるべき問題かと思います。
まさにそれ、教えられてしまうと自分で考えられなくなる
見とり能力だけでは、自己流になってしまい技も身に付かない、一人で、技ができているかできていないかを判断するのが難しい。その結果、鎌倉時代の刀も再現できなくなったのでは?
現代っ子は想像力が無いのか、口頭や文章の説明だと全く理解してくれない。閃きや創意工夫も無い。人類は退化しているのかも知れませんね。
C C 最初の方に書いてあるやつ何処から根拠出しましたか?
@C C 初めまして、黒田鉄山先生と初めてお会いした時に今の親は子供に倒れる危ない事をさせなくなった。昔の子供は、自然と日常生活の中で倒れる事を覚えた子供が少し危ない事しても昔の親は注意しないで見守り今の親みたいに止めたりしなかったと話されていました。
一生修行の、空手道です❗️押忍‼️
4:07 目をシパシパさせ手裏剣投げてるのがKWAWAII ⁑>
基本は教えられるがコツは自分で習得して貰うしかないっちゅうことだね柔道なんかだと軽量級の人が重量級の人に教えられる事なんてほとんどないからねやっちゃ駄目な事とやられたら嫌な事とか位しか教えらんないし勝ち方とか自分で覚える事にはなるよねまあ同じ階級でもなかなか手取り足取りは難しいかもな、実際に試合になったら自分一人でやるわけだし
押さば引け引けば斜めに です
先生の技は、凄いです
凄いです//
興味尽きないお話です。こういう事考え出すと世の中退屈することないような気がします。
物事には魔法のような正解があると思い込んでる人が教育によって量産された気がします。
「考えたらダメなんや。やってしまえ。」とうちの先生がおっしゃってましたな。
Love these videos....you need English translation! Thank You
"Learn" Japanese.
技術的な部分だけに目を向けるなら一流のコーチにレッスンを受ければプロ級にはなれずともアマチュアではトップレベルにはなるでしょういっぽうで何でも教わってばかりいると自分で考えるちから感じるちからを失ってしまうスポーツ選手で現役を去ってから転落人生を歩んでいくケースが良く目につくのもそういう事情からではないでしょうか他人をあてにせず自分で道を切り開いていこうとする心が武術やスポーツといった枠組みのみならず人生そのものにも通じる万能の法だと思います。
抜重から投げることが出来たら素早く構えられるのではないでしょうか?抜重すると腕は素早く動くので素早く構えることが出来てコントロールも安定するはず…
教える事なんかは、本質的な意味で存在しない。 学ぶ事と、学ぼうとする、各々の自力しかない…。 『甲野流を創れ。』の、意味ですね。
初めまして、甲野流を創れと言うより、私が甲野先生とお会いした時甲野先生本人から自分流を創れと言われました。人の真似をするのではないと言われました。甲野流を創ると言う事は、甲野先生の真似になってしまいます。自分流を創れるかどうかだと言われました。それが他の第三者に邪道だと言われても自分がそう決めたのなら、それを貫き通す事が大事だと言われました。甲野先生は、武術家ではなく武術稽古研究家です。自分で自分の武術を創ると言うスタンスです。甲野先生の講習会に行くと先生の技がガラリと変わっていてまたかまたかと講習会に来た人は言います。また技が変わったと言われます。甲野先生には型が無い創作武術です。甲野先生の技は型と言うより甲野先生が研究して創り上げた技と言う方が正しい表現だと思います。黒田鉄山先生の所みたいに、古の家伝の型が存在しているワケではないのです。甲野先生はアインシュタインのようなワザを発明する研究家です。私は、甲野善紀先生と稽古するかたわら黒田鉄山先生からも習っていますが、2人の先生と稽古しているうちに自分が知らないうちに無足や浮身の感覚が足裏に感じられるようになり、去年辺りから足裏が実際には空中に浮いているワケではないですが空中に足裏が浮いているような感覚はあります。私は体重5キロ増えましたが、体重が増えたにも関わらずに足裏だけは浮いていて軽い感覚です。感覚としては自分の両足の裏にスポンジがありスポンジを踏んでもスポンジの反動で足裏にクッションがある感覚です。
スポーツ格闘技というものとの違いですね
一旦学んだものをバラバラにするのも鍛錬において大事だと思いますけども。否定による肯定。言葉で教わる事のまずさは教わる側の問題ですよね。自分で考えない、伝統を守り過ぎて使えないものになり果ててしまう。かといって、自分で生み出せる能力のある人は少ないので、一般化ってのは必然でしょう。
武道を極めます。
さかしい人間に対する、優しい嫌味ですよね。
最初は真似から始まって、徐々に理にかなっていることに気づいていくものただお手本になる指導者が低レベルだと残念ながら先行きはない良い指導者に巡り合うことは運のみとしか言いようがない
4:26 怖すぎて草
一言で表すと守・破・離でいいんじゃないですか?
見て盗めというのは動きを再現しろって動的な再現能力だから意識からすっぽり抜けてるよね
爆笑問題の日曜サンデーとかゲストに来て欲しい
あんなくだらない番組に出て欲しくないどうせ太田が茶化しておわりでしょ?
あなたは、知らないでしょうが既に探検バクモンという番組で共演されています。また、共演して欲しいと思い書きました。
吉田選手がひっくり返されてましたねw
職人の候補生が幾らでも居る時代は「見て盗め」で、見取り能力の高い者だけをふるい落とせば良かった。だが今のようにそもそも職人や技術者に成ろうという若者自体が少ない時代にそれはできない。候補生自体が少ない上ににふるい落とせば、技術の伝承者が居なくなり途絶えてしまう。それでは元も子もない。単に「文字情報や理論で教えるな。見て覚えさせろ」という教育論なら少子高齢化の現代には無意味どころか害をなす。理論教育の充実と両立して、同時に全体の見取り能力を向上させるにはどうするか?という考えこそ必要。(追記)別の人のコメントで「教わる側の想像力の欠如」と結論して切り捨てているけど、これは一番ダメ。そういうこと言うならそもそも人に教えるのを仕事にする資格ない。自分一人で達人を目指した方がいい。人に教えてお金を頂くなら、教える技術を磨くのがプロして当たり前。自分の能力不足を生徒のせいにしてはいけない。教えられないなら金を取るべきじゃない。教える側が自分の内的感覚を、動きや言葉でどう表現して伝えるか、教わる側が気づかない着眼点や要点に気づけるよう、どう助けてやれるか、そういうことを教える側が模索すること自体が自分の内部深化と進化に繋がる。「教えることは学ぶことの半ばなり」という言葉もある。自分一人の力で閉じてやれることなど多寡が知れている。人は他者との関係性があって初めて「人"間"」になれるんだよ。達人が自分一人で自得したかのように語る"極意"も、決して己だけの力で得たものではない。周囲との関係性の中で得られたものだ。古今の賢者や達人はなぜ山から下界に降り、衆上や弟子をとって自分の得たものを教え伝えようとするのだろうか?彼らは人が周りに生かされた存在であることを分かっていた。だから得たものを独占せずに周囲に還元しようとしたのだろう。「教えてもダメ。教えるのは無駄」ではなく、教える側も人々にどう教えるかを工夫していかなくてはならない。それが社会の中で生きる者のあり方じゃないだろうか。
コメント欄で最も共感できるコメント
医学部の者だけど、受験勉強的にはわからないものはすぐ他人に聞いて解決したほうがいい。考えるだけ無駄だから。体で覚える武術とは当たり前だけど別物
習志野先生に今気付きました
全てを体得してる継承者は育ってるのだろうか。
懇切丁寧もどこまでを想像するかやな。山本五十六のように見せて聞かせてやってみせは十分だろと思うが、俺ね、本当に手取り足取りをしてもらったことあったわ。そしたら全然違うね。まったく思いもしなかった使い方をしていて、こりゃ駄目だわwと思った。それに手取り足取り教えてくれた先生は見てもそうだし、ちょっとだけ触れるの。それで技させて、心持ち肘に、背骨に、くるぶしに、と力や筋の感覚をおっしゃり、その通りやったらできたと。見て学ぶ、盗むというのは本当にアボリジニじゃないが、できる奴はできるんだと思う。「洞窟おじさん」という本、ドラマにもなったが、その方も見て覚えて行ったと言っていた。虐待あって家出を中学ぐらいにして山にこもって云十年洞窟や山で生きていたという。案外文盲もバカにならんものあって、本当に俺もそれは考えさせられるし、自分自身でも課題にしてる。
昔の先生方は、見て覚えなさい自分のものにしなさい。教えるものはないと良く言いますよね。
動きに無駄がない。サーフィンに応用できないかな。
波のパワーに逆らわず逆手に利用してみては😮
出逢いの数触れ合いの数明らかに現代人がなくしたもの自然界や日常生活での炊事洗濯などなど全ての成長の場がなくなってる
全然衰えないな、河野先生笑
見とる能力に関しては同意見ですが、一人で作った丈の技が40年変わらないのはいかがかと思います。
見とり能力だけでは、自分で全て試してみないと身に付いたものが正しいか分からない。それは、戦いなら死を意味する。言ってみれば世捨て人の技ではないのか?誰も活かそうとする物にはならない。むしろ誰も活かしてやろうと考えてないとも言えるのではないか?それは、天狗や仙人の使う技に思える。誰のためでもない誰の利益にもならない自分の利益・満足のためだけの技。例えば、見とり能力で学んで正しいかどうか分からない技術で作くられた家を買い住んでみたいと思うだろうか?昔の大工だって経験を伝えている。見とり能力だけで作っているわけではないだろう?
自分に合った物が、解らないと駄目ですか、洞察力となぜ(?_?)疑問の解決の方法ですか
忍者がいる!
スピードは違うけど、RUclipsrのスーツくんに話し方が似ている…
習志野さんがいる!
神道夢想流…?
世間知におけるバカ出世間知における探究者
言葉の定義があやふやままで体感覚を言葉で説明されても、聞く方は、如是我聞 になるだけ
ズレてるコメントばっかで草
そのコメントが既にズレてる
偉そうな言い方になるのだけれど武道などを志している人の中で初めて「この人はわかっているな」と感じた。
これ程、能書きが上手な先生もいないです。畏れ入りました。甲野先生マンセイィィィ!!!
見とりほど難しいものも無い。
見とり能力だけを大事にした結果、鎌倉時代の刀の再現もできなくなったんでしょうね。
雷光鬼丸 要らなくなったからなくなったと考えれば平和な世の中になったと言うことなので良いことです
@@喘息餅の熊野 まだ必要な時代に既に失伝さていたので、それは違うと思います。
( ̄□ ̄;)!!あ-なるほど
昔は親切丁寧に教えると、才能ある奴は数年で師匠を凌駕する様な奴が居てるから、徐々にしか教えなかったんやろう。考えるクセを付ける意味もあったろうけど。
今の世の中でも最初に開発する人間が苦労して、それをマネ、コピーする人間が楽をして良い思いをしているね
門前の小僧習わぬ経を読む、ですね。
何でしょうね……。間違っているかも知れませんが。 現時点での私は、[言語化の罠]の様に解釈しました。現代人は何でも[言葉で]理解,体得できると勘違いしている。 しかし、そもそも[言語]こそが その始まりは動物的鳴き声、身体機能の発展の結果に過ぎない。[言葉]による説明に執着する事がかえって習得を遅らせているんですかね?……
有心と無心
この人の能力は素晴らしいけど、普通の人がこれを会得しても食っていけないからね現代で必要ない能力だから必然的にロストしていったんじゃないかな競技化するのも厳しいし、趣味で習うにも体系化されてなくて難しすぎる…というか教える人がいない伝承されずに途絶えるだろうね大抵は合気道のほうに流れちゃう
教える事が下手な人はそう言う。
絶対ではないが、ある種そう。この人の講習に参加したことあるけど、技はすごいけど説明は意味不明だった笑付き添いの人の補足説明の方が分かりやすかった
@@赤ピクミン-i1h さんスポーツ選手を教えているそうですが、この人、実際に試合で技を使用する事が無い人。教えるプロ。つまり実際に売り物を作る職人とは違う。それなのに見て盗め、。ズレてますよね。
@@山田聡-i5d 技は面白いんですけどね。自分も本気でいったんですが、いなされたので嘘ではないと思う。でも本当の試合でどこまで通用するのかはまた違うのでそれを見てみたいです。
@@赤ピクミン-i1h さん技の素晴らしさはもちろん認めています。ただ見て盗め発言は指導者としてはかなりズレていると思いました。自分の指導力の無さを相手のせいにしている。フレディローチはパッキャオのように動く事はできませんがパッキャオを教える事ができるでしょう?
@@山田聡-i5d まぁそうですね笑実際、付き添いの人の説明の方が上手だったので指導者としてはイマイチだと思います。天才型なんでしょう
その文盲で見取り能力が高いアボリジニが、技術や知識の言語化に成功した西洋人にほぼ滅ぼされたわけで、自分ひとりでやってるならいいけど、武「道」とか「流派」のようなものの体系化、継承を考えると「見て覚えろ」はやっぱダメなんだよね。
教えるのも技術だからねできる=教えられる、では無い甲野先生は、教えること自体は正直あんまり上手じゃない(というか興味が無い)と思う
ペテン
どこが?
武術家では無く『武術研究家』だから、ペテン師では無いと思う。
よくペテンとか詐欺とかいうが、その基準はどこにあるのかね?ペテンとして扱う基準はどこ?もしかして格闘技や剣道の試合に出ないから?そんな話であれば低レベルすぎて話にならん。甲野さんはある種の職人だよ。職人として扱う必要があるね。つまり武術で使われる技術を研究し、錬磨している職人的武術家。だからといってその実力は真剣使って決闘してみないとわからないわけで、ペテンとも詐欺師とも誰も判断できないと思うが。それでも判断するということは貴方はきっと何人も人斬りをやってきた剣術の達人なんですね。凄いわ(笑)
あ あ 「ペテン」って、まぁそれがアンタの見取り能力だよ
そうね。甲野氏に批判的な友人にいやご本人は武術研究家言うてるでしょと言ってもなかなか納得はしなかったw
別段武術に限らずどんなスポーツも仕事も皆考えて自分なりに工夫して自分なりの感覚、考えでもってやっているでしょ。それは最初は一通りの手順なり、ルールなりを教えて貰うが。だから別段特別なことではない。ただ考えるのが圧倒的に足りてない人というのはとても多い。武術で言えば空手のその場での正拳突き等何も考えずにただ漫然と気合いだけ入れて数やってるの見ると本当にアホだなーと思う。空手やボクシングなんか本当にそういう単なる運動でしかない練習やってる人は多い。受け返しやスパーリングも一定以上慣れてくるとただそれをやっていて、やった満足感でやった気になっているけど実際は上達していない。ランニングも全部同じでただ何も考えずに走るとか、それは心配機能が上がって多少は早くなるだろうけど腕や目線、呼吸の仕方、姿勢等を研究しないと本質的には上手くならない。
コメントの内容を見ていると、甲野さんの言葉の意図を間違って捉えている方がチラホラといらっしゃる気がしました。
もちろん、自分も100%理解できているのか?と問われると、そうではないかもしれません。
わたしは武道ではありませんが、身体操作の有識者(踊り)として、何度かプロやアマチュアを対象に教育をした事があります。
甲野さんがよく仰られている内腕という造語がありますが、それに近い技術となる、肩甲骨のアイソレーション(独立運動)についての授業をしたときに、かなり近い意識を持ったのではないかと感じる時がありました。
私は肩のアイソレーションが独特です。
その知識を学びたいという人に対して、ここではざっくりと書きますが、肩甲骨の運動意識を二次元的から三次元的に変える事をレクチャーしました。
その時、9割以上の人には
「想像できる範疇を超えた意識だった。自分では思いつかない考え方だ」と言われたのです。
最初はそこまで違和感は無かったのですが、次第にその言葉に大きな違和感を感じ始めました。
それは、見取能力の高い人にレクチャーした時との差です。
残りの一割のレクチャー相手は見取能力が高かったのですが、私の言葉から読み取る情報量が圧倒的に違いました。
読み取ってもらえる。。。というよりかは、え?この人レクチャー必要あったかな?という感覚。つまり、固定概念さえ捨てて練習を続けていたら、いずれは習得できていた技術だったんだろう。という予感でした。
そこで気付いたのです。
踊り以外でも情報処理の教育もしているのですが、教育を受けた時の情報(固定概念)に縛られている人の多さへの驚愕です。
甲野さんは、アボリジニの読み取り能力を例え話として挙げ、更に棒術に関しては、既存のイメージに囚われない動きを重視していると話をされていました。
これは、成長に関する話を例え話でされていたのではないかと思います。
コメントでは継承についての話をしている人がいらっしゃいますが、本質はきっとそうではないと思うのです。
よっぽどといい教育者に恵まれなければ、技術や知識は自分の力で成長させ、新たな領域を開拓していくしかありません。
甲野さんも継承に関する教育は絶対的に必要で、大事だと考えているはずです。
その上で、その情報に囚われていた自分自身に対して、後悔の念を抱かれているように感じました。
「教わる」ことの落とし穴。
それはきっと、教わった事以外の事への想像力と創造力の欠如なのではないかと、私はこの動画を観て感じました。
教わり過ぎちゃうと、自分で考える力が育たないと言う事ですね
数式・公式を単に覚えているのと、自分で見つけ出す数学者が違う感じ?
身体が個々で違うわけだから、同じ指導でも、各々の身体機能で調節するのが答えなわけなんだけど、それが分からず考えようともしないから上達しなかったんだな自分は!頑張ろ!
それは仕方のないことですよ。
人類は、社会集団のある一定の規則の中で活動をしてきたのですから。
先生の仰ることの方が現代社会においては不可解なものだと思いますよ。
武術を齧った事のある身からすると『教える』事が出来るのは理屈で説明できる事だけで、感覚的な言葉で言い表すのが難しい事は自分で『学びとる』しかないんだと思います。
初めまして、黒田鉄山先生と甲野善紀先生と私は良く稽古しますが、2人の先生と稽古しているうちに、自分でも知らないうちに身体が使えるようになってきて最近は無足や浮身の感覚が足裏に感じられる所まではきました。
甲野善紀先生とかなり古い時代から稽古している先輩から見取り稽古は徹底的にさせられました。
そのおかげで、武術以外でも見取り稽古が役に立つ時がありました。
現在は身体の使い方(動かし方)が昔と異なっているので、重心の使い方·関節の使い方の手本が無い。甲野氏の動きを見ると非常に勉強になる。
ホントにそうだな!身体に染み込むって分かりやすい、試行錯誤したものが残るんだな
言葉が話せるように自然とって大事
甲野先生の動画も、それをめぐっての皆さん方のコメントも大変参考になりました。
ありがとうございました。
甲野さんの身体の動きを見て、「1000人の素人が束になっても、1人の職人に敵わない」って言葉思い出しました。そういう人間を目指します。
今エコロジカルアプローチという分野で環境制約と言われるものを甲野先生はおっしゃている
感覚的な議論のようで非常に科学的な話です
江戸時代に書かれた書物に、こういうものは自得の他、道なしと書いてあります。甲野先生はご存じなんでしょう。
見稽古と言う言葉の意味はつい最近何となく理解できるように成りました
手裏剣を投げるときの澄んだ音きれい・・・
ブルースリーの「考えるな、感じろ」ってこういうことやったんか。
自分で考えて行動するってことは、なかなか出来ないことだよね。出来る人は優秀な人が多いイメージ。それを極めた人はどのジャンルでも出世してるイメージ。ひかれたレールの上で教わったことを極める人も自分で作り上げる人もどっちも素晴らしいと思う。
イメージだけの口だけ思考なのは分かったw
お師匠様からはよく、剣に聞けとは言われましたな
saber red
カッコ良すぎるやろ笑
カッコいい
なるほどなと思い、自らの振る舞いを顧みさせるお話だと思いました。
しかし私のような凡人は、客観的で再現性の高い解釈の体系に頼りたい気持ちを捨てきれないな、とも思います。
感覚的なことも解剖学的な身体イメージと、その解剖学的構造に基づいた、ある種の身体操作理論を原則として
卓越した格闘家や武道武術家の方の動きを見て、解釈するのは
今まで気づかなかったことに気づいたりすることが頻発します。
解剖学的な構造を元に推論を立てるほうが無意味な後戻りや停滞がないように思います。
骨格や関節の構造
それを繋ぐ筋や腱の
働きは重要だと思います
先生は元は合気道なのか
納得!
おそらく、「見とる」という表現が誤解を招きやすいように感じる。
より良く表現できてるかわからないけど、「自分の中に世界(論理)を形作る」という風に言い換えられるはず。
基本的に、教わる知識って元々持ってた世界の上に付け加わっていく様な形で理解されていくんだけど、
それとは違って、稀に自分の中にある世界自体が変質して、新たな知識体系の中から新しい情報が理解されることがある。
前者はテクニック的な知識で、後者は根幹的な知識と言えるかもしれない。
応用が利くのは圧倒的に後者で、一つ一つの事象に新しい世界観での反応を返すだけで基本的に対応ができるが、
前者だと、適応範囲が限られていて新しいケースへの対応ができないことが多々ある。
また面白いのは、必ずしも身体的な技術だけがそうであるわけではなくて、学問的な分野等においても同様のことが起きるということ。
難解な論文なんかは大抵世界観が先に降りてきて、それを後追いで言語化してる場合だったりするんだけど、
これはまさに武術の技術をうまく教えられないっていう現象と重なっていて、仏典などもその一例に挙げられる。
動画中で相当優秀な教育者じゃないと、教えて育てあげることは難しいって言ってるんだけど、
この「優秀な教育者」っていうのは、言葉を介して他人が新しい世界を形作ることをリードできる人のことを指しているのだろうね。
甲野先生と同じ電車に乗ってたことがあります
甲野先生とお話したことがあります。
甲野先生から教わったことがあります。
甲野先生と・・・(笑)
どうでもいい話だよ
この地味な顔を良く見分けられるな
@@private5179 不意打ちでパンチしてみたら良かったのに
それで本物かどうか分かるでしょ笑
「昔は技を盗めと言われていたが、今は親切丁寧に教えてやるのが正しい」というような風潮があるが、見取る能力の変化によるものだったのかもしれませんね。武術に限らず、人に教える立場の人は一度は考えるべき問題かと思います。
まさにそれ、教えられてしまうと自分で考えられなくなる
見とり能力だけでは、自己流になってしまい技も身に付かない、一人で、技ができているかできていないかを判断するのが難しい。
その結果、鎌倉時代の刀も再現できなくなったのでは?
現代っ子は
想像力が無いのか、口頭や文章の説明だと全く理解してくれない。
閃きや創意工夫も無い。
人類は退化しているのかも知れませんね。
C C 最初の方に書いてあるやつ何処から根拠出しましたか?
@C C 初めまして、黒田鉄山先生と初めてお会いした時に今の親は子供に倒れる危ない事をさせなくなった。
昔の子供は、自然と日常生活の中で倒れる事を覚えた
子供が少し危ない事しても昔の親は注意しないで見守り今の親みたいに止めたりしなかったと話されていました。
一生修行の、空手道です❗️押忍‼️
4:07 目をシパシパさせ手裏剣投げてるのがKWAWAII ⁑>
基本は教えられるがコツは自分で習得して貰うしかないっちゅうことだね
柔道なんかだと軽量級の人が重量級の人に教えられる事なんてほとんどないからね
やっちゃ駄目な事とやられたら嫌な事とか位しか教えらんないし勝ち方とか自分で覚える事にはなるよね
まあ同じ階級でもなかなか手取り足取りは難しいかもな、実際に試合になったら自分一人でやるわけだし
押さば引け
引けば斜めに です
先生の技は、凄いです
凄いです//
興味尽きないお話です。こういう事考え出すと世の中退屈することないような気がします。
物事には魔法のような正解があると思い込んでる人が教育によって量産された気がします。
「考えたらダメなんや。やってしまえ。」
とうちの先生がおっしゃってましたな。
Love these videos....you need English translation! Thank You
"Learn" Japanese.
技術的な部分だけに目を向けるなら一流のコーチにレッスンを受ければプロ級にはなれずともアマチュアでは
トップレベルにはなるでしょう
いっぽうで何でも教わってばかりいると自分で考えるちから感じるちからを失ってしまう
スポーツ選手で現役を去ってから転落人生を歩んでいくケースが良く目につくのもそういう事情からではないでしょうか
他人をあてにせず自分で道を切り開いていこうとする心が武術やスポーツといった枠組みのみならず
人生そのものにも通じる万能の法だと思います。
抜重から投げることが出来たら素早く構えられるのではないでしょうか?
抜重すると腕は素早く動くので素早く構えることが出来てコントロールも安定するはず…
教える事なんかは、本質的な意味で存在しない。 学ぶ事と、学ぼうとする、各々の自力しかない…。 『甲野流を創れ。』の、意味ですね。
初めまして、甲野流を創れと言うより、私が甲野先生とお会いした時甲野先生本人から自分流を創れと言われました。
人の真似をするのではないと言われました。
甲野流を創ると言う事は、甲野先生の真似になってしまいます。
自分流を創れるかどうかだと言われました。
それが他の第三者に邪道だと言われても自分がそう決めたのなら、それを貫き通す事が大事だと言われました。
甲野先生は、武術家ではなく武術稽古研究家です。
自分で自分の武術を創ると言うスタンスです。
甲野先生の講習会に行くと先生の技がガラリと変わっていてまたかまたかと講習会に来た人は言います。
また技が変わったと言われます。
甲野先生には型が無い
創作武術です。
甲野先生の技は型と言うより甲野先生が研究して創り上げた技と言う方が正しい表現だと思います。
黒田鉄山先生の所みたいに、古の家伝の型が存在しているワケではないのです。
甲野先生はアインシュタインのようなワザを発明する研究家です。
私は、甲野善紀先生と稽古するかたわら黒田鉄山先生からも習っていますが、2人の先生と稽古しているうちに自分が知らないうちに無足や浮身の感覚が足裏に感じられるようになり、去年辺りから足裏が実際には空中に浮いているワケではないですが空中に足裏が浮いているような感覚はあります。
私は体重5キロ増えましたが、体重が増えたにも関わらずに足裏だけは浮いていて軽い感覚です。
感覚としては自分の両足の裏にスポンジがありスポンジを踏んでもスポンジの反動で足裏にクッションがある感覚です。
スポーツ格闘技というものとの違いですね
一旦学んだものをバラバラにするのも鍛錬において大事だと思いますけども。否定による肯定。言葉で教わる事のまずさは教わる側の問題ですよね。自分で考えない、伝統を守り過ぎて使えないものになり果ててしまう。かといって、自分で生み出せる能力のある人は少ないので、一般化ってのは必然でしょう。
武道を極めます。
さかしい人間に対する、優しい嫌味ですよね。
最初は真似から始まって、徐々に理にかなっていることに気づいていくもの
ただお手本になる指導者が低レベルだと残念ながら先行きはない
良い指導者に巡り合うことは運のみとしか言いようがない
4:26 怖すぎて草
一言で表すと
守・破・離
でいいんじゃないですか?
見て盗めというのは動きを再現しろって動的な再現能力だから
意識からすっぽり抜けてるよね
爆笑問題の日曜サンデーとかゲストに来て欲しい
あんなくだらない番組に出て欲しくない
どうせ太田が茶化しておわりでしょ?
あなたは、知らないでしょうが
既に探検バクモンという番組で共演されています。
また、共演して欲しいと思い書きました。
吉田選手がひっくり返されてましたねw
職人の候補生が幾らでも居る時代は「見て盗め」で、見取り能力の高い者だけをふるい落とせば良かった。だが今のようにそもそも職人や技術者に成ろうという若者自体が少ない時代にそれはできない。候補生自体が少ない上ににふるい落とせば、技術の伝承者が居なくなり途絶えてしまう。それでは元も子もない。単に「文字情報や理論で教えるな。見て覚えさせろ」という教育論なら少子高齢化の現代には無意味どころか害をなす。理論教育の充実と両立して、同時に全体の見取り能力を向上させるにはどうするか?という考えこそ必要。
(追記)別の人のコメントで「教わる側の想像力の欠如」と結論して切り捨てているけど、これは一番ダメ。そういうこと言うならそもそも人に教えるのを仕事にする資格ない。自分一人で達人を目指した方がいい。人に教えてお金を頂くなら、教える技術を磨くのがプロして当たり前。自分の能力不足を生徒のせいにしてはいけない。教えられないなら金を取るべきじゃない。
教える側が自分の内的感覚を、動きや言葉でどう表現して伝えるか、教わる側が気づかない着眼点や要点に気づけるよう、どう助けてやれるか、そういうことを教える側が模索すること自体が自分の内部深化と進化に繋がる。「教えることは学ぶことの半ばなり」という言葉もある。
自分一人の力で閉じてやれることなど多寡が知れている。人は他者との関係性があって初めて「人"間"」になれるんだよ。達人が自分一人で自得したかのように語る"極意"も、決して己だけの力で得たものではない。周囲との関係性の中で得られたものだ。
古今の賢者や達人はなぜ山から下界に降り、衆上や弟子をとって自分の得たものを教え伝えようとするのだろうか?彼らは人が周りに生かされた存在であることを分かっていた。だから得たものを独占せずに周囲に還元しようとしたのだろう。「教えてもダメ。教えるのは無駄」ではなく、教える側も人々にどう教えるかを工夫していかなくてはならない。
それが社会の中で生きる者のあり方じゃないだろうか。
コメント欄で最も共感できるコメント
医学部の者だけど、受験勉強的にはわからないものはすぐ他人に聞いて解決したほうがいい。考えるだけ無駄だから。
体で覚える武術とは当たり前だけど別物
習志野先生に今気付きました
全てを体得してる継承者は育ってるのだろうか。
懇切丁寧もどこまでを想像するかやな。
山本五十六のように見せて聞かせてやってみせは十分だろと思うが、俺ね、本当に手取り足取りをしてもらったことあったわ。
そしたら全然違うね。まったく思いもしなかった使い方をしていて、こりゃ駄目だわwと思った。それに手取り足取り教えてくれた先生は見てもそうだし、ちょっとだけ触れるの。それで技させて、心持ち肘に、背骨に、くるぶしに、と力や筋の感覚をおっしゃり、その通りやったらできたと。
見て学ぶ、盗むというのは本当にアボリジニじゃないが、できる奴はできるんだと思う。
「洞窟おじさん」という本、ドラマにもなったが、その方も見て覚えて行ったと言っていた。虐待あって家出を中学ぐらいにして山にこもって云十年洞窟や山で生きていたという。
案外文盲もバカにならんものあって、本当に俺もそれは考えさせられるし、自分自身でも課題にしてる。
昔の先生方は、見て覚えなさい自分のものにしなさい。教えるものはないと良く言いますよね。
動きに無駄がない。サーフィンに応用できないかな。
波のパワーに逆らわず逆手に利用してみては😮
出逢いの数
触れ合いの数
明らかに現代人がなくしたもの
自然界や日常生活での
炊事洗濯などなど
全ての成長の場が
なくなってる
全然衰えないな、河野先生笑
見とる能力に関しては同意見ですが、一人で作った丈の技が40年変わらないのはいかがかと思います。
見とり能力だけでは、自分で全て試してみないと身に付いたものが正しいか分からない。
それは、戦いなら死を意味する。
言ってみれば世捨て人の技ではないのか?
誰も活かそうとする物にはならない。
むしろ誰も活かしてやろうと考えてないとも言えるのではないか?
それは、天狗や仙人の使う技に思える。
誰のためでもない誰の利益にもならない自分の利益・満足のためだけの技。
例えば、見とり能力で学んで正しいかどうか分からない技術で作くられた家を買い住んでみたいと思うだろうか?
昔の大工だって経験を伝えている。見とり能力だけで作っているわけではないだろう?
自分に合った物が、解らないと駄目ですか、洞察力となぜ(?_?)疑問の解決の方法ですか
忍者がいる!
スピードは違うけど、RUclipsrのスーツくんに話し方が似ている…
習志野さんがいる!
神道夢想流…?
世間知におけるバカ
出世間知における探究者
言葉の定義があやふやままで体感覚を言葉で説明されても、聞く方は、如是我聞 になるだけ
ズレてるコメントばっかで草
そのコメントが既にズレてる
偉そうな言い方になるのだけれど武道などを志している人の中で初めて「この人はわかっているな」と感じた。
これ程、能書きが上手な先生もいないです。
畏れ入りました。
甲野先生マンセイィィィ!!!
見とりほど難しいものも無い。
見とり能力だけを大事にした結果、鎌倉時代の刀の再現もできなくなったんでしょうね。
雷光鬼丸
要らなくなったからなくなったと考えれば平和な世の中になったと言うことなので良いことです
@@喘息餅の熊野 まだ必要な時代に既に失伝さていたので、それは違うと思います。
( ̄□ ̄;)!!あ-なるほど
昔は親切丁寧に教えると、才能ある奴は数年で師匠を凌駕する様な奴が居てるから、徐々にしか教えなかったんやろう。
考えるクセを付ける意味もあったろうけど。
今の世の中でも最初に開発する人間が苦労して、それをマネ、コピーする人間が楽をして良い思いをしているね
門前の小僧習わぬ経を読む、ですね。
何でしょうね……。間違っているかも知れませんが。
現時点での私は、[言語化の罠]の様に解釈しました。
現代人は何でも[言葉で]理解,体得できると勘違いしている。
しかし、そもそも[言語]こそが その始まりは動物的鳴き声、
身体機能の発展の結果に過ぎない。
[言葉]による説明に執着する事がかえって習得を遅らせているんですかね?……
有心と無心
この人の能力は素晴らしいけど、普通の人がこれを会得しても食っていけないからね
現代で必要ない能力だから必然的にロストしていったんじゃないかな
競技化するのも厳しいし、趣味で習うにも体系化されてなくて難しすぎる…というか教える人がいない
伝承されずに途絶えるだろうね
大抵は合気道のほうに流れちゃう
教える事が下手な人はそう言う。
絶対ではないが、ある種そう。
この人の講習に参加したことあるけど、技はすごいけど説明は意味不明だった笑
付き添いの人の補足説明の方が分かりやすかった
@@赤ピクミン-i1h さん
スポーツ選手を教えているそうですが、
この人、実際に試合で技を使用する事が無い人。教えるプロ。つまり実際に売り物を作る職人とは違う。
それなのに見て盗め、。
ズレてますよね。
@@山田聡-i5d 技は面白いんですけどね。
自分も本気でいったんですが、いなされたので嘘ではないと思う。
でも本当の試合でどこまで通用するのかはまた違うのでそれを見てみたいです。
@@赤ピクミン-i1h さん
技の素晴らしさはもちろん認めています。
ただ見て盗め発言は指導者としてはかなりズレていると思いました。自分の指導力の無さを相手のせいにしている。
フレディローチはパッキャオのように動く事はできませんがパッキャオを教える事ができるでしょう?
@@山田聡-i5d まぁそうですね笑
実際、付き添いの人の説明の方が上手だったので指導者としてはイマイチだと思います。
天才型なんでしょう
その文盲で見取り能力が高いアボリジニが、技術や知識の言語化に成功した西洋人にほぼ滅ぼされたわけで、
自分ひとりでやってるならいいけど、武「道」とか「流派」のようなものの体系化、継承を考えると「見て覚えろ」はやっぱダメなんだよね。
教えるのも技術だからね
できる=教えられる、では無い
甲野先生は、教えること自体は正直あんまり上手じゃない(というか興味が無い)と思う
ペテン
どこが?
武術家では無く『武術研究家』だから、ペテン師では無いと思う。
よくペテンとか詐欺とかいうが、その基準はどこにあるのかね?ペテンとして扱う基準はどこ?もしかして格闘技や剣道の試合に出ないから?そんな話であれば低レベルすぎて話にならん。甲野さんはある種の職人だよ。職人として扱う必要があるね。つまり武術で使われる技術を研究し、錬磨している職人的武術家。だからといってその実力は真剣使って決闘してみないとわからないわけで、ペテンとも詐欺師とも誰も判断できないと思うが。それでも判断するということは貴方はきっと何人も人斬りをやってきた剣術の達人なんですね。凄いわ(笑)
あ あ
「ペテン」って、
まぁそれがアンタの見取り能力だよ
そうね。甲野氏に批判的な友人にいやご本人は武術研究家言うてるでしょと言ってもなかなか納得はしなかったw
別段武術に限らずどんなスポーツも仕事も皆考えて自分なりに工夫して自分なりの感覚、考えでもってやっているでしょ。それは最初は一通りの手順なり、ルールなりを教えて貰うが。だから別段特別なことではない。
ただ考えるのが圧倒的に足りてない人というのはとても多い。
武術で言えば空手のその場での正拳突き等何も考えずにただ漫然と気合いだけ入れて数やってるの見ると本当にアホだなーと思う。
空手やボクシングなんか本当にそういう単なる運動でしかない練習やってる人は多い。受け返しやスパーリングも一定以上慣れてくるとただそれをやっていて、やった満足感でやった気になっているけど実際は上達していない。
ランニングも全部同じでただ何も考えずに走るとか、それは心配機能が上がって多少は早くなるだろうけど腕や目線、呼吸の仕方、姿勢等を研究しないと本質的には上手くならない。